99歳の看取り~安らかな自然死~(看取りの記録)

グループホームさくらで6年間、御入居されて最期まで人生を生ききられた泉さんの記録として記します。

そして、最期までお世話させていただいた泉さんと、最期までお任せいただいた家族さんと、最後まで診察をして頂いた東口医師に感謝申し上げます。

    筆記 藤田 知子(前グループホームさくら管理者)

 6年前の3月3日、ひな祭りの日に泉さんはグループホームさくらに娘さんとお孫さんと一緒に入居するためにやってきました。

 この日にセッティングしたのは、さくらでひな祭りのイベントをする為、楽しい雰囲気の中、自然に入居してもらうためでした。家族さんは泉さんがお好きなお寿司を食べに行こうか、と誘ってこられたようです。彼女は来た当初、物珍しそうに周囲を見渡して、賑やかな雰囲気に楽しそうに笑みを浮かべておられました。

 ただこちらの様子を察して、段々と不安になられたのか「おいていかないで」と最後は娘さんとお孫さんに訴えておられました。娘さんもお辛かったのでしょうが、なんとか気持ちを振り切り、帰られました。

 介護施設ではこのようなことは珍しくはありません。

 家族さんが、お父さん・お母さんを入所させるとき、自然に入所に持っていけることは稀です。正直に介護施設に入りに行く、と言って付いてきてくれないので、泉さんのときのような形になります。泉さんも、この日の出来事はだまし討ちのように入所させられたと感じていたのかもしれません。

 そして入所してからも、多くの方は「家に帰してほしい」と切々と訴えられます。「なぜこんなところにいるのかわからない」「家族はどこにいる」「ここにいるのを知っているのか」と眼に涙をためておっしゃるのです。それを見ると、堪らない気持ちになります。

そして家族さんの中にも、その姿を見て、辛い気持ちを抱かれることがあります。

私は介護士として、そんなとき家族さんには「少しだけこちらにお任せしてください」と言うようにしています。

 ただ、時間がかかるのです、とお伝えします。私たちは、その言葉しか、それしか言えないのです。

 泉さんは90歳を超え、大変俊敏かつ非常に頭の切れる方でした。

 家族さんから聞いた彼女の人生の歴史は非常に長く、顔に刻まれた皺ひとつひとつに歩んできた歴史が刻み込まれたような人でした。彼女が自分自身のことを少しずつ忘れていってしまう中でも、目に浮かぶ思慮深さや鋭さにいつも私たちは驚かされました。

 彼女の人生のほんの一部分ですが、記します。

 泉さんは六人兄弟の三女として生まれ、小さいころから運動神経が大変良かったそうです。勉強もよくできたため新潟大学の看護学科に入学し、看護師の免許を取られました。戦争中は医師団とともに上海に渡り、必死で働かれましたが、敗戦後は持っていたものをすべて没収され、身一つで日本に帰国。そして日本で結婚されました。結婚については「結婚という選択をせず、看護婦を続けたかった」という言葉を漏らされていたようです。その当時の日本で女性が結婚をしないという選択は選びづらく、また生真面目な泉さんは世間体も考えて「皆のためには私が結婚しなければ」と思われたのかもしれません。敗戦後は日本全体が貧しく、苦労されたようです。娘さんが小さい頃は洋裁のお仕事をされ、近所の方に洋裁も教えておられたようです。そしてその後看護師の免許を再発行して、看護師として60歳ごろまで働かれ、京都に移住される際に退職。娘さんとお孫さんと暮らしながら、70歳過ぎまでウェディングドレスを縫う仕事を続けられました。その後、徐々に新しいことが覚えられなくなっていったようです。

 グループホームさくらに入所されてからは、あの大きな鋭い目を光らせながら、玄関に一番近い椅子に座り、職員の目を盗んで出口に走っていくことも多々ありました。

 今でも鮮明に覚えていることがあります。

 入所から二週間ほどたった時のこと、ある日お孫さんが仕事帰りに面会に来られました。最初はお孫さんの名前を呼び、大変喜ばれていましたが、だんだん「連れて帰って、私は捨てられたの」とお孫さんに縋りつくように言われます。そして、お孫さんと職員がしゃべっているすきに玄関に止めておられた車の後部座席に入り、車にしがみついて出てこられないのです。お孫さんがつらい表情で、抱えて出してくださりましたが、「けんたー、けんたー」と泣き叫びながらお孫さんの名を呼ぶのを、どうしようもない悲しい気持ちで聞いたこともありました。きっと、その日は泉さんもお孫さんも辛い気持ちだったのだろうと思います。

 ちょうどこの日、夜中の2時頃だったと思います。夜勤の職員から半泣きで電話が掛かってきました。巡回時に泉さんが部屋にいないと、トイレにもどこにいないと、必死な様子です。そして、職員が探し回った末、窓から抜け出し洗濯機の横にうずくまっているのを発見しました。彼女は布団の中にダミーの陶器の犬を入れ、あたかも自分がいるように装って逃げ出されたのです。

 またある時はディサービスに友達がいて、今日は行く約束をしているから、ここを出ていかなければ、と理路整然と言われたりしました。夜は職員が色々お話をしたあと、諦めた様子で「ママ(娘さんのこと)とけんたが来ないなら寝るわ」と就寝する日々でした。

 そんな繰り返しの中で、入所一月もたたない内に原因不明の高熱が出て、検査入院になりました。迎えに病院まで行くと、丁度ベッドの柵を乗り越えて抜け出そうとしている最中でした。驚いたものの、泉さんらしく少しほっとしたのを覚えています。「退院するんですよ、一緒に帰りましょう」と言うと大変喜ばれ、帰りの車の中で私の手を強く握って、「あなたがいるからいいわ」と言われたのです。

 この出来事が転機で、帰りたいという思いは持ちつつもホームの生活を楽しんでいただけるようになっていきました。

 泉さんはとにかく食事が大好きで、いつも口いっぱいに食べ物を頬張っておられました。殊更甘いものが好きでケーキやシュークリームはこちらが驚くほどのスピードで食されるのです。

 また職員のことをよく見ておられ、「その服どこで買うの? 町に行ったら買ってきて。」と言ったり、「そのTシャツ、ベティさんね、昔はやったわね」とキラキラした目で周囲を見ておられました。そして職員が持ってくる女性雑誌が大好きで、真剣に読んでおられました。

 丁度一年後のひな祭りの日、お茶会を行いました。泉さんに生菓子2個とお抹茶をお出しすると、「おいしゅうございました」と大きな声で言われたのが大変良い表情で、もう一回言ってほしいと言うと、にこっと笑って「おいしゅうございました」と言って頂いたので、私の分の生菓子を差し上げました。生菓子を嬉しそうに食べておられるご様子を見て、管理者として安心したのを覚えています。

 泉さんのお心の中にはきっと「家に帰りたい」という気持ちは残っていたのだと思います。でもその一方でこのホームが泉さんにとって、安らかで楽しいのだと感じられた出来事でした。

 その後、俊敏だった泉さんも歩けなくなり、車いすでの生活になりました。

 耳が遠いため筆談で会話を行っていましたが、職員が大きな声で耳元で話すと、うなずいたり、お礼を言ったり、笑ったりと楽しそうに過ごされる日々が続きました。

 泉さんはホームで新しく受け入れたベトナム人の実習生が大のお気に入りで、実習生も泉さんのことが大好きでした。今から考えると、外国で働いたことがあり、異国の地で一人で働く実習生を心親しく感じられていたのかもしれません。二人でニコニコ何かを話しているので、まるで祖母と孫のようだとほかの職員と話したりもしました。

 今年で泉さんは99歳でした。11月が誕生日なので、この様子なら100歳まで元気に過ごせると、職員と話していました。100歳になったら、お祝いをすることも勝手ながら考えており、ご本人にも「今年で100歳になりますよ」とお声掛けしました。もう、自分の年齢などは覚えておられませんでしたが、幾分鋭さが和らいだ瞳で静かに見返してこられました。面会に来られた家族さんも100歳の誕生日を祝う準備をされていたようです。

 2月の末ごろ、少し食欲がなくなり、自分で食べる意欲が無いようだと職員から相談がありました。以前もそのようなことがあり、食欲が戻り元気になられたことがあったので、今回も食べる意欲が戻るかもしれないと話しました。しかし、3月に入り、やはり食事への意欲が少なく、介助をしてもいらないと横になることが増えました。泉さんは食事が大好きな方であり、そんなご様子を職員皆が不安に感じていたようです。

 3月11日、ホームで誕生日の方がおられ、チョコレートケーキをお出しすると、もうフォークは使えなかったので、手づかみですべてご自分で食べられました。けれどここしばらくの食欲低下が気になり、迷いましたが夜分に娘さんにご様子をお伝えしました。

 3月13日、往診の東口医師に様子を見てもらうと、何がご病気ということではないが、年齢的に「どうも最期に近い」という話がありました。ご様子から察する部分はありましたが、あの元気な過去や、色々な出来事が思い出されました。

 東口医師は家族さんとの面談をする提案をしてくれましたが、娘さんは東京に居られ、息子さんはブラジル在住なので、お手紙を出していただけることになりました。手紙には泉さんが老衰による自然な経過であること、「人生の最終段階」として天寿を全うされること、最後の診察をさせていただく、ということが丁寧に誠実に書かれていました。

 娘さんはその二日後の3月15日金曜日、夕方に東京から京都に帰ってきてくれました。お孫さんも一緒でした。

 その時には、意識はあるものの口は開いて、呼吸が荒くなってきていました。

 娘さんはブラジルのお兄さんに泉さんの様子を連絡され、「飛行機が取れたので、最短で日曜の午後に京都に着く」との事でした。泉さんの状態は厳しいものの、このとき私も職員も「会わせてあげたい」と強く感じました。

 お孫さんが、大きな声で耳元で「おっちゃんがブラジルから帰ってくるまで、おばあちゃん頑張ってや」と何度も言ってくれました。

 金曜日の夜の8時過ぎでした。それからというもの、職員全員、ブラジルから24時間かけて息子さんが帰ってくるのだから、何とか息のあるうちに逢わせたいと、耳元で大きな声で、ブラジルから息子さんが帰ってくるからそれまで頑張ってとみんなで言い合うようになりました。

 土曜日の夜、肩で息をされているようだと連絡が入り、東口医師に、もしかしたら今夜かもしれないと連絡を入れましたが、気持ちとしては「もう少し、頑張ってほしい」とそして「泉さんなら頑張られるのではないか」という思いでした。

 東口先生からはいつでも連絡して、と返事があり心強く思いました。

 夜勤者から夜を越せたとの連絡があり、何とか日曜日の午後までもってほしいと、朝から泉さんの部屋につきっきりで、顔や手を拭いたり、血圧やSPO2を測ったりしました。意識はもうありませんでしたが、耳元で「ブラジルから息子さん帰ってくるからね。逢ってね。」と繰り返しながら。

 午後から、そわそわと手を拭いたり爪を切ったり、身支度を整えて待ちました。

 午後4時、ブラジルから息子さん到着。

 泉さんはいつも通りのきれいな顔でした。顔色もよく、ほんとうにゆったりと眠っているような寝顔で、息子さんとお会いすることができました。

 息子さんが「ブラジルで仕事をすると決めた時に言われた事があります。親の死に目には会えないと思え。」と「でも、今回会えることが出来ました。本当にありがとうございました。」と言われ、涙が止まりませんでした。

 夜になり、息子さんと娘さんが帰られた後、夜の1時37分に「今、息を引き取られました。」と夜勤の職員から電話が掛かってきました。

 穏やかだったと、そのような最期だったとのことでした。

 息子さんを待っておられたのだと、もし人生のろうそくがあるのならすべて使いきって亡くなられたのだと感じました。

 私が知っている泉さんは、俊敏で油断なく周りを見ている瞳や、おいしそうに食事を食べている笑顔、実習生とニコニコ話し合っている姿です。

 けれど、亡くなった泉さんを見た時、若かりし頃の姿が浮かびました。

 自分の力で、なんでもできると目に強い光を宿し、背筋を伸ばし前を向いていた姿です。

 最期の最期まで人生を生ききった、自分の力を使い果たされた姿は彼女らしいものでした。

 泉さんがご入居されたとき、「グループホームさくらで最期まで看取りをさせていただいて宜しいですか。」と娘さんに尋ねました。

 そのことを娘さんがお手紙の中で「言っていただいた時は正直どういうことかわかりませんでしたが、それがどんなにやさしい言葉であったか今ならわかります。」と記してくださいました。

 最期まで泉さんと関われたこと、そして娘さんから頂いたお言葉のすべてに感謝します。