高島屋洛西店の閉店と、洛西という街
2026年8月3日、高島屋洛西店は閉店しました。
去年の冬、事業所の職員さんから聞いたとき、まさかと思いました。そして実際に高島屋洛西店は来月、四十四年の歴史に幕を下ろしました。
弊社の事業所であるグループホームさくらは、二〇〇一年からこの洛西地域に根を張ってきました。
ですから高島屋洛西店の閉店は、弊社にとっても他人事ではありません。ただ、それは会社としての話だけではなく、一つの地域がたどってきた歴史の、ある種の終わりの出来事でもありました。
閉店セールをしているということで、一週間ほど前、高島屋洛西店に来ました。一階の御座候(回転焼き、今川焼き)の横に特設コーナーがあり、そこには洛西地域に関する新聞記事が時系列にそって貼ってありました。写真でも撮ろうとスマートフォンをかまえたところ、どうやらなにかスキャンできる機能が最近になってできたようで、かざすだけでスキャンできてしまい、結局すべての記事を保存しました。それを家で読むと、本当にこの高島屋洛西店とこの地域、そしてそこに住まう人たち、そしてもっと広く日本の時代について考えさせられました。
話は変わりますが、私も洛西地域に十歳から十八歳まで住んでいました。
九歳までの私にとっても、高島屋洛西店は馴染みのある場所でした。私の祖母は京都府綾部市に住んでいます。当時は右京区に住んでいたので、祖母の家に行く時、国道九号線を通ります。その途中で親が高島屋洛西店に寄ってくれて、祖母へのお土産に御座候を買ってくれるのです。御座候が焼けるのを見るのが好きで、どれくらいの時間そうしていたかは覚えていませんが、それをじっと見ることが好きでした。かなり昔、ラクセーヌの入り口にフルーツジュースの店があり、そこでジュースを買ってもらうのも楽しみでした。
十歳のころ引っ越しましたが、高島屋洛西店があるので、むしろ洛西という地域は私の中で親近感のある土地でした。
母は引っ越し後、そのグループホームさくらでパートとして働きだしました。
転校した学校は私が前に通っていた小学校より人数が少なく、たしか二クラスしかなかった記憶があります。あるとき教師が「この地域はむかし生徒が多すぎて分校したくらいで」という話をしました。「この地域もなかなか複雑で」と続けましたが、当時の私にはわからず、結局この地域について理解できたのは高校生になってからでした。
それはあるとき、車に貼り紙が貼ってあって、内容は今はもううろ覚えなのですが、地下鉄計画に騙された、と書かれていました。それについて調べたときに、やっとこの地域がなぜここまで衰退したのか、という理由の一つがわかりました。
さて、新聞の話に戻ります。
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新聞記事は、一九七二年から始まっていました。
いちばん古い記事の見出しは「『緑』も豊かに 四万人の団地」とありました。今でこそ洛西といえば団地とマンションの街ですが、もとはただ広い竹やぶだったそうです。その竹林を切り開いて、ブルドーザーで谷を均して、そこに新しい街をつくり、そこには四万人が住む、そういう構想でした。当時は反対運動もあったそうです。
八四年十一月十二日の記事は「十年一昔」という言葉から始まっています。それは一九七二年の記事を引用する形ではじまり、見出しは「竹藪から団地へ急変」です。十年でここに町ができたという内容で、断腸の思いで先祖の土地を売った方のインタビューものっていました。「ブルドーザーが田畑をつぶし、工事の音を聞くたびに悲しかった。でも無秩序な開発とは違い、調和のとれた街になった。ここで新しい人々をむかえ、ともにいきていきたい」という前向きな内容です。
そもそも、なぜこんな竹林の中に、いきなり四万人もの街をつくろうとしたのか。
一九四五年、戦争で家が焼けて、外地から人が引き揚げてきて、そこに高度経済成長が重なって、日本はとにかく家が足りませんでした。仕事を求めて人がどんどん都会に集まってきて、狭い家に大勢で住むしかなかった。そこで国が考えたのが「ニュータウン」でした。都会にはもう土地がない。だったら郊外の丘や竹林を切り開いて、道路も学校も公園もお店も、ぜんぶ計画された理想の街を、まるごと新しくつくってしまおう、と。
この「ニュータウン」というのは、ある種の理想郷でした。
もとをたどると、百年以上前のイギリスに行き着きます。
十九世紀のロンドンは、労働者は煤煙と、高い家賃と、スラムの中で暮らしていました。空は煙で汚れ、伝染病がはやる。そういう街だったようです。
この状況で「これは間違っている」と憤って書かれたのが、ハワードの『明日の田園都市』。この本が、のちに世界中の街づくりの原点になりましたが、とはいえ作者は街づくりの専門家というわけではなかったようです。
ハワードの考えは、シンプルで、都市と田舎のいいところだけを合わせた第三の街をつくればいい。彼はこれを「都市と農村の結婚」と呼びました。
その街の姿は、こういうものでした。
「周りを緑の帯で囲んで、その中に三万から五万人が暮らす」 「家は公園や緑に囲まれて、職場も住まいも近い。そして、都会とは鉄道で結ぶ」
そして戦後、日本で初めての大きなニュータウンが、大阪の千里ニュータウンとして生まれます。一九六二年のことでした。
千里がお手本になって、全国にニュータウンが生まれていき、京都初のニュータウン開発に洛西が選ばれました。
ニュータウンは住宅地を増やすためが目的の宅地開発ではなく、人が百年かけて積み重ねてきた「理想の暮らし」への夢が、めぐりめぐって、京都の西の竹やぶに、ようやくかたちになろうとした瞬間だったのです。
ニュータウン、新しい街。この言葉は、ただの地名ではなく、自然が豊かで、家から歩いて十分でスーパーに行けて、公園があって、学校があって、やがて地下鉄が通って、街の中心と結ばれる。子どもがのびのび育って、暮らしが年々豊かになっていく。そういう、設計された幸福への約束が、この名前には込められていたようにおもいます。
だからみんな、ここに来たのだと思います。
開店セールの新聞が、あんなに夢でいっぱいなのも、当たり前でした。「洛西タカシマヤ きょう十時オープン!」「ふれあい、バラ色」「光あふれ、ひとが集う。語らいがあり、憩いがあり、暮らしが広がる」。開店の日には三千人が並んで、消防音楽隊が演奏して、子どもたちがテープカットをしたそうです。この広告を出したとき、高島屋はきっと、この街が本当に四万人になると信じていました。もしかしたら、もっと大きくなると思っていたかもしれません。そして、ここに越してきた人たちも、同じでした。地下鉄が来ると聞いて、駅ができると聞いて、竹林を切り開いたばかりのこの街で、これから暮らしがひろがっていくのだと、みんなが信じていました。
そして、その四十四年後にその店が閉じることを、誰も知りません。最後の記事は「44年の歴史に幕 開店前に700人が列」であることも。
開店セールの新聞記事は一番最初あたりに置かれていたので、やるせない気持ちになりました。
ニュータウンの約束が果たされなかったことには、いくつか理由があります。
ひとつは、ニュータウンという仕組みそのものに、最初から埋め込まれていた宿命でした。ニュータウンは、同じ時期に、同じくらいの年代の若い夫婦が、一斉に入ってきます。その子どもたちが一斉に育って、一斉に街を出ていって、最初に入ってきた親の世代が、一斉に年をとっていきます。普通の街はいろんな世代が少しずつ入れ替わるので、ゆっくり新陳代謝するのですが、ニュータウンは街全体が、まるで一人の人間みたいに、同時に若くて、同時に老いていくということになります。
もうひとつが、地下鉄でした。私が高校生のとき、車に「地下鉄計画に騙された」という貼り紙を見て、初めてこの街の事情を知った、あの話です。
洛西は、地下鉄が来ることを前提に設計された街で、もともとの計画では、京都市営地下鉄東西線が、この洛西を通って長岡京まで延びることになっていました。ところが、その地下鉄は、来ませんでした。いちばん大きな理由は、身も蓋もないというか、お金です。バブルがはじけて、京都市の財政が厳しくなって、地下鉄を延ばす体力がなくなっていったのです。
私が調べていて、いちばん胸に残ったのは、行政の計画書の言葉が、どう変わっていったかでした。地下鉄延伸について、昔の計画は「早期完成に努めます」と書いていました。それが次の計画では「切に願っています」という弱い言い方に変わって、そして二〇二一年の計画では、地下鉄延伸の項目そのものが、消えていきます。
会社の経営計画を社長と話すことがあるのですが、なんというか状況というのは本当に変わり、小さな中小企業の計画ですら、うまくいかないことの方が多いです。諦めた計画も沢山あります。
ただ実際に、できないとわかっていても、それにかける展望が強かったり、コストをかけていたり、関わる人がいると、計画変更や中止というのは多大な痛みを伴い、表現は曖昧になっていきます。正確なところは分かりませんが、「切に願っています」のときにきっと実現できないだろう、ということがわかっていたのだとおもいます。この文言からは、なんとなくですが、かつて地下鉄は本気の約束であり、しかし実現見込みのない計画が必要とされているという現実だけがある、という妙な苦しさのようなものを感じます。そして現実として最後は文言も計画も消えていきました。
そして、いちばん大きな理由。それは、日本そのものが、あの頃みんなが信じていたようには、豊かになり続けなかった、ということです。
ニュータウンは、高度経済成長という、永遠に続くと信じられていたものを前提に、設計されていました。人口は増え続けて、経済は成長し続けて、みんなが郊外に家を買って中流になっていく。その前提が、一九九〇年代に崩れました。今の私からすると、そんなことあり得ない、と思うのですが、成長するときはそれが続くとおもうものなのかもしれません。
高島屋洛西店の歩みは、その日本経済そのものでした。一九八二年に開店して、十年後に増床して高級化して、二十年後に商店会が客層を広げて。ここまでがまだぎりぎり上り坂です。でも、いつからか売上は落ちていって、閉店が決まりました。
新聞を見ると、高島屋がやれることをやらなかったわけでは、全くないということでした。リニューアルをして、京都店と連携して、組織を効率化して、なんとか続けようとしていました。たけにょんという西京区のキャラクターとの取り組みの記事もありました。その上で、続けられなかった。ちなみに昔、学生のとき福祉イベントで私もたけにょんの着ぐるみを着て、一生懸命歩いたことがあります。
とはいえ、ふと考えることがあります。この閉店が、どこか複雑な気持ちを残すのは、これが「役目を終えた」という閉店には思えないからです。
役目を終える、というのは、もう必要なくなる、ということです。でも、高島屋洛西店が果たしてきたものは、この街の中心であり、顔であり、人が集まる場所であるということだと思いますが、これは今も必要とされているものだと思います。役目が済んだのではなく、ただ時代と人口による閉店。
高島屋はサテライトショップをラクセーヌに出してくれるようですが、それでも寂しさは残ります。
必要とされているのに、支えきれずに終わる。役目そのものは、宙に浮いたまま、引き継ぐ相手もなく、消えていく。この街には、その空白だけが残ります。
私は前に、和歌山の白浜にある「ホテル川久」というホテルに行って、似たようなことを感じたことがあります。バブルの絶頂だった一九九一年に、四百億円もかけて建てられた「日本一豪華なホテル」です。イタリアから職人を呼んで、天井に本物の金箔を貼って、世界中の本物の素材だけで作った、宮殿みたいなホテルでした。でも開業から数年で、バブルがはじけて経営が破綻しました。ホテルに説明のようなものが書いてありましたが、柱を作るために左官職人が海外に勉強に行ったり、今では考えられないほど大きなスケールでつくられていました。
あのホテルには「これから永遠に豊かになる」と信じきった時代だけが持てた、狂気じみたエネルギーがありました。これからよくなる、と信じているときの人間の力は、本当にすごいものだと思いました。とんでもないものを作ってしまう。でも、その未来が来なかったとき、その力の大きさは反転するのかもしれません。
私の世代は、物心ついたときから、ずっと日本が衰退し続ける世界を生きてきました。「これからよくなる」というのを、一度も体で味わったことがありません。だからこそ、あの開店セールの新聞に刷り込まれた夢の熱や、川久の四百億円が不可解なものに思えます。自分が一度も持ったことのない、あの「上っていく感覚」が、そこにはあるからです。
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私たちがこの街に来たのは、二〇〇六年でした。ちょうど、街の上りのエスカレーターが止まって、ずいぶん経った頃で、もうそのころには街の問題が言及されていました。
ようするに、もうこのニュータウンは二十年前から老化が進んでいました。
同じ年の新聞には、造成中のむかしの写真とともに「劇的に変わる地域の姿」という記事が載っていました。街の話題は、その頃にはもう「これからどう再生するか」に移っていました。ホテルエミナース(現・万葉の湯)のボウリング場も、いつのまにか閉業していました。よく行った竹の郷温泉は、なんとか万葉グループが買い取ってくれたおかげで残っています。
去年、私の通った小学校と中学校が、閉校になりました。閉校の日は、後から知りました。生徒が多すぎて分校した、とあの先生が話していた街の学校が、私が大人になるまでのあいだに、子どもがいなくなって閉じていました。
高島屋洛西店も閉じました。それは、この街の一つの時代の終わりです。去年は母校が閉じて、この街の顔だった百貨店が閉じる。私が覚えているこの街の風景は、少しずつなくなっていきます。
そして、高島屋のあとには高齢者向けの住居ができるそうです。
私たちの会社は、高齢者の介護の会社です。それでも、百貨店が閉じて、そこに高齢者マンションが建つ、というのはなにか構図として辛いものがあります。
子どものための場所だった学校が消えて、老いのための場所が増えていく。その順番でしか進まない閉塞感があります。
グループホームさくらは、二〇〇一年にこの街で生まれて、それからずっと、この街とともに歩いてきました。これから先のことは、一生懸命に予想を立てて、なんとかこの会社を続けようと思っています。でも時代は変わります。いつか認知症の特効薬ができて、この仕事が必要なくなる日が来るかもしれません。あるいは逆に、もっと必要とされる未来が来るのかもしれません。それは今の私にはわかりません。
それでも、入居者の方がいて、職員がいて、この街に暮らしがある限り、続けることをやめるわけにはいきません。というより、どんなことでも、終わりを予想してなにかを行うことはなかなか難しいです。
竹林だったこの街で、夢がいちばん膨らんだあの日から、四十四年が経ちました。その夢は、みんなが信じたようには、叶いませんでした。それでも、この街にはまだ人が暮らしています。
だから私たちも、この街で、グループホームさくらと、西京区に移転してきたグループホーム安らぎを運営して、利用者様と職員さんの暮らしが続くよう努力していき、その結果がどうなるかは、きっと、時にしかわからないのだろうと思います。
部長 藤田 可奈


